客としてゆるくなれば仕事が楽になる?
西洋人の生産性はどうして高いのか? の補足記事です。
この前の記事の最後の文=
「労働者としてこれ以上一生懸命働くよりも、みんながもっと客として寛容になれば、日本の生産性は上がるんじゃないかな?」
どういうことかというと、
西洋人(日本人以外、と読み替えてもほぼ成り立つ?)は、労働者としてガリガリ働く代わりに、消費者として少し寛容で、またそれなりに努力します。
逆に日本人は、消費者としては不寛容であまり努力せず、それを労働者に転嫁しています。とはいえ、ほとんどの人が消費者であると同時に労働者でもあるので、結果として転嫁された労働量は自分がガリガリ働くことによって補っているんです。
例えば、
ヨーロッパの多くの国では、宅配の時間指定ができません。できても午前、午後とか。また午前と指定しても午後2時にまったく悪びれることなく持ってくる。なので宅配が来ると思われる日はひたすら家で待つという努力を強いられます。待っても一日来なかったとかよくある。日本なら細かい指定時間通りに来るし、もし不在票が入っていても連絡すればすぐに持ってきたりします。消費者としてほとんど努力が必要ない。
他にも、お店で何か買ったときには、袋の中にちゃんと買ったものが全部入っているか、壊れていないかを買った直後にみんなチェックします。そう、入っていないことや壊れていることが頻繁にあるので、自分でチェックしないと損するのです。
かたや日本では、そういったことはサービス提供側が責任をもってやることが当然なので、消費者側はそれほど気を使いません。もし間違っていたら苦情を言えばいいし、運がよければおまけがもらえるかもしれないし、そもそも滅多にありません。
このように海外では消費者側がそれなりに努力してサービスを受けている気がします。その代わり、労働者(何度も言いますが結局は同じ人)としてはのんびり働く。日本ではそれはすべて労働者側がカバー。
あるサービスがトータル100で成り立っているとしたら、
日本; 提供側の努力95+消費者側の努力5=100
海外; 提供側の努力50+消費者側の努力50=100
というイメージです。
立場によって人格が変わる?
日本人は立場によってまるで違う人格のように振る舞いますよね。役を演じるというのか。
客である太郎、労働者である太郎、父である太郎とそれぞれでまるで違う人格のように。
外国人では比較的それは一致していることが多いように思います。ジョンはどこにいっても、買い物をしていても、働いていても同じ人間ジョンだ、みたいな。
そう考えると、お店で、店員だけが「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」といって、客側は何も言わないっていうのはとても不自然ですよね。
極端な例だと、お客様の前ではとても腰が低く丁寧な営業マンが、電車の遅延トラブルがあったときに駅員(という立場の人)に対しては王様のように振舞うとか。
#ちなみに、駅員に怒鳴る人って、日本では時々みかけましたが、海外では見たことない光景です。
日本人は役割、立場によって人格が変わることを(無意識的に?)受け入れているし、そっちのほうが心地もいいんでしょうね。
これはどっちがいいということではないのですが、個人的に日本はもう少しゆるい社会になってもいいかと思っているので、労働者として楽になりたいんだったら、まずは客として寛容になり努力することからはじめてもいいのでは?
結局は自分に返ってくるのだから。